独りよがりのつぶやき

花の写真を中心とした 気ままなブログです

千本釈迦堂

H28.8.16(月) その7  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12

高台寺を出たバスの中で、初めて千本釈迦堂を訪ねたときのことを
思い出した。開通したばかりの東海道新幹線を利用して京都を訪ね
た折に、「安貞元年(1227)建立の千本釈迦堂本堂は、応仁の乱
どの幾多の戦火を免れている、今も当時のまま残る京洛最古の木造
建造物だ、広隆寺東寺よりも古い」と聞いて、大変驚いたものだ。

 大報恩寺本堂(千本釈迦堂)(国宝) とても優雅で美しい 

大報恩寺 本堂
   -千本釈迦堂大報恩寺 > 大報恩寺(千本釈迦堂)について-


因みに、広隆寺桂宮院本堂は建長3年(1251)頃の建立、東寺の金
堂は慶長8年(1603)の再建とされている(東寺最古の建造物とさ
れる宝蔵は平安後期の作とか)。

大報恩寺

ご本尊の釈迦如来坐像は、快慶の一番弟子とされる行快の作品。
普段は秘仏として公開されないが、次の特定の日は開帳される。

  ・ 正月三が日(1月1日~3日)
  ・ 節分会(おかめ福節分)(2月3日)
  ・ 千本釈迦念仏(遺教経会)(3月22日)
  ・ 六道参り(精霊迎え(8月8日~12日) 精霊送り(16日))
  ・ 成道会と大根焚き(12月7日~8日)


 木造釈迦如来坐像〈行快作/(本堂安置)〉

   木造釈迦如来坐像
   -「千本釈迦堂 大報恩寺の美術と歴史」(2008)-


   木造釈迦如来坐像(行快作)
   -小学館「日本美術全集7 運慶・快慶と中世寺院」-

やや吊り上がった目がそう思わせるのだろうか、これまでにお会い
した釈迦如来像のお顔とは大分違う。突き刺すような目には緊迫感
があり、おもわず緊張して背筋が伸びてしまう。

霊宝殿には、重文の十大弟子像や六観音像、銅造釈迦誕生仏に千手
観音像などが安置されているが、如意輪観音像は文化庁主催のイタ
リア(ローマ)での「日本仏像展」に出展されていてお会いできな
かった。

 木造十大弟子立像 -千本釈迦堂 大報恩寺(「重要文化財編」)

十大弟子像

目犍連(もっけんれん)像の足ほぞ及び優婆離(うばり)像の像内には
「巧匠法眼快慶」の銘があり、承久2年(1220)の作とか。師であ
る快慶が弟子像を、弟子である行快が釈迦像を造った背景は何なの
か、気になるところだ。


 木造六観音菩薩像 -千本釈迦堂 大報恩寺(「重要文化財編」)

六観音像(重文)

准胝(じゅんでい)観音像内には、「造仏師肥後別当定慶」の銘があり、
貞応3年(1224)の作とされている。六道信仰に基づいて作られた
仏像で「六道参り」が行われる。

昨日は終戦記念日。今日は精霊送りの日。送り鐘をついてご先祖の
精霊を供養するという、初めての体験をさせていただいた。そして
今夜は「五山送り火」。お精霊(しょらい)さんの霊が無事にあの世
へ送り届けられますようにと願った。

本堂左横の「ぼけ封じ観音像」の前に集まって、「一番お願いしな
ければならない観音さまだね」と話し合っては盛り上がった。

全体の拝観時間が短く、おかめ塚や不動明王堂、北野経王堂願成就
寺をゆっくり見ることなく、慌ただしくホテルへと向かった。


.
千本釈迦堂は、宝永の大火天明の大火蛤御門の変とどんどん焼け廃仏毀釈
京都空襲第三の原爆投下の標的など、多くの焼亡の危機にさらされた。ご本尊
の釈迦如来坐像は、その鋭い眼差しで、日本の姿をどのように凝視し続けてこら
れたのだろうか・・・。そして、歴史の動乱に翻弄された人たちは、一体どんな
思いで、「世のふしぎ」を見ていたのだろうか。



梓澤要 『荒仏師 運慶』 新潮社 2016

  姿かたちなき仏と、それに懸命に祈りすがりつくしか、それしか救われよう
 のない人間たちをつなぐ、それが仏師だ。そのことがわかるまで、わたしは栄
 光と挫折の長い道のりを手探りで歩んだ。


山野貞子『運慶の謎』 鳥影社 (2008 )

  あの夜の戦乱の恐怖の中で運慶は、快慶の弟子でさいづち頭の行快が、解せ
 ぬことをしていた姿をちらりと見てしまった。
  行快はこともあろうに松明を御堂に投げこみ、火を放っていた!
  運慶はわが目を疑った。仏師にあるまじき所業ではないか。あの混乱のなか
 で誰が何をしようとも証拠は残らぬ。快慶の弟分として頭角を現しはじめた行
 快である。
  ・・・
 「快慶師から以前ききました。わたしが御堂に火をかけたと、運慶師がお疑い
 ということを」
  ・・・
  とんでもない濡れ衣でございます、と、行快は眼をふせた。
  ああ燃えてよかった。きっとそのうちに我らの時代がくるぞと・・・。その
 ように考えたのは自分なのだ。
  ・・・
  「もうええ、もう・・・・・よいわい。あのことは」
  いまとなって思うに、東大寺、興福寺の大伽藍が焼亡してよかったのじゃ。
 たといおぬしがつけ火したのではないにしても、あれでよかったのじゃ。運慶
 もいまはそうおもう・・・。
 「いろいろと誤解があった。疑ってわるかった。
  ・・・
 治承の戦乱、源平の合戦。
 「これは・・・・・人間のすることではない」
  都に住めばこんな目に一生のうちに何回も遭う。
  ・・・
 「都に近ければ、いつまたどういうことがあるかわからぬ。地蔵十輪院から持
 ち出して焼亡をまぬかれた彫像を洛北の明惠坊お 願いしよう・・・きっと喜
 んで受けてくださる」
  そう考えると気持ちが楽になり、目の前が明るくなった。
  ・・・
  政子尼御台から持仏堂の供養にと、実朝の念持仏の本尊として、薬師如来と
 十二神像の依頼が運慶のところに持ち込まれた。
  散々人を殺し、苦しめてのちに立派な御堂を建て、仏像を祀って何を祈るつ
 もりなのだろう?
 「よい戦(いくさ)や悪(あ)しき太平というものはないもの・・・な」
  七十すぎた運慶は歯のない口をすぼめて呟く。
 「なに、われら仏師は、ご注文の仏像を造ってお目にかけるだけよ」


松本清張『運慶』 -歴史小説の世紀 天の巻 (新潮文庫) (2000)

  仏師法印運慶は、京都の七条仏所の奥で七十六歳の病んだ身体を横たえてい
 た。
  ・・・
  南都炎上のあとは惨憺たるものであった。東大、興福の二寺は殆ど全滅であ
 る。堂塔、諸院、諸房、諸舎四十数宇を焼失し、残る所は、羂索堂、禪定院と
 近辺の小屋少々、新薬師寺西辺の小屋が少しばかりであった。
  ・・・
  すると作品というものは──運慶は、もう一度、東大寺、興福寺も炎上して、
 悉く自分の彫像が灰になればいい、と思った。

  その年の十二月十一日、運慶は死んだ。


岡部伊都子『こころをばなににたとえん』 創元社 昭和50年 p.34~
        
     世直しの送り火

  二十八年前の八月十五日。日本敗戦はそれまでの価値観を大きく変えた。
 その翌十六日は旧盆の精霊送り。この年の八月十六日ほど切なく狂おしかった
 ことはない。小娘であったわたしは戦争を・・・

  その起源のさだかではない京都東山の大文字は、応仁の乱のため三界にみち
 みちた亡魂を供養する送り火などと言われる。戦争でもっともいためつけられ
 るのは常に庶民である。戦いを起こした者は安全なところに身をおき、富を蓄
 積する。

  おそらく、長くつづいた悲惨な状態を二度とふたたびあらしめたくない世直
 しの願いが、この火供養にこめられたのだはないか。 

  この大文字の火も、本土空襲の始まった昭和十八年からとりやめられた。
 代りに夕刻の山に白衣の人が並んだといわれる。「どうして大事な人たちを殺
 してしまったのか。ひどい侵略戦争のために三百万もの命を殺し、他国人をも
 苦しめ殺す罪を重ねたのか」。今も生きているわたしの恥は深い。世直しの願
 いはゆがめられ、裏切られ、そのゆえにいよいよ深まる。今年は雨が降った。
 中止かと思っていたら、雨のなかにぽっと火がつきはじめた。仕事部屋のテラ
 スに出て、伸び上がって向いの屋根越しに見える火の大文字を見た。空気も水
 も食べものも汚濁しつづける悲しみが、このひとときにこみ上げた。戦いも汚
 濁も許してはならぬ・・・・・。死んだ人々への供養とは、死者のうらみを生
 かす生者の覚悟ではないか。雨にぬれて、大の火はしめやかに燃えた。雨音を
 聞きながら見入る火文字に、まぶたがぬれた。
                          (一九七三・八)


岡部伊都子『女人の京』 (作品選・美と巡礼) 藤原書店 2005 p.159~

     千本釈迦堂

  おかめは、自分の才覚であることを人に知られるのをおそれて、自刃したの
 だと書いたものもある。
  しかし、本来の伝承では、おかめは殺されているのだ。なまじい、夫救いた
 さの一念で、ぎりぎりの知恵を献じたのが、あだになったのである。妻に救わ
 れた夫は、その妻を殺して秘密を守り、面目を保とうとしたのであろうか。
  ・・・まさか、自分を救った愛しい女房を殺す夫があるものかと、思いたい
 のは山やまなれども、男の面目、仕事の誇りのきびしかった時代のことだ。あ
 るいは、そのようなことであったのかもしれない。
  ・・・
  目だったらあきまへんえ、という京女人のいましめは、目立つことが不幸に
 つながるおそれからきたものかもしれない。口をださないではいられない状態
 でも、たとえ気がついていても、うっとりと気づかぬふうで見ているか、自分
 の知恵だとは気づかれない方法で、伝達するくふうが必要な女人だったのだ。
  おかめ塚とされている宝篋印塔の前で、いまの女人、これからの女人の在り
 ようを思う。戦前までは、もっとも女らしくないこととして許されなかった、
 批判と抵抗と独立。それらはようやくにして、現在の女人の中に花ひらきつつ
 ある。




千本釈迦堂 大報恩寺(「国宝編」「重要文化財編」)

   国指定文化財等ベース

   ・ 大報恩寺本堂(千本釈迦堂)
      時代:鎌倉前期 年代:安貞元 西暦:1227
   ・ 木造釈迦如来坐像〈行快作/(本堂安置)〉
      ト書:像内に「巧匠法眼行快」の銘がある
   ・ 木造十大弟子立像
      ト書:目犍連像の足臍及び優婆離像々内に巧匠法眼快慶の銘がある
   ・ 木造六観音菩薩像
      ト書:准胝観音像内に造仏師肥後別当定慶、貞応三年五月四日の銘

徒然草 -Wikipedia  ・ 『徒然草』 -国会図書館DC - 日本文学大系

  (228) 千本の釋迦念佛は、文永のころ、如輪上人これを始められけり。
  (238) 一、二月十五日、月明かき夜、うち更けて千本の寺にまうでて、

方丈記 - Wikipedia  ・ 『方丈記』 -国会図書館DC - 日本文学大系

  およそ物の心を知りしより以来、四十あまりの春秋を送れる閒に、世の不思
 議を見ること、やゝ度々になりぬ。いにし安元三年・・・





関連記事

テーマ:史跡・神社・仏閣 - ジャンル:写真

  1. 2016/11/11(金) 07:52:37|
  2. 彫 刻
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<御所と六角堂 | ホーム | 言の葉もなし>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://dajaro.blog40.fc2.com/tb.php/674-2bcdcd63
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

dajaro

Author:dajaro
男性 福島市在住

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

ごあいさつ・お知らせ (3)
3.11関連 (43)
花のすがた (543)
それぞれの桜 (44)
岡部(自宅)に咲く花 (169)
岡部(隈畔)に咲く花 (65)
その他 (124)
絵 画 (13)
彫 刻 (27)
未分類 (4)
ブログ開設準備 (10)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR