独りよがりのつぶやき

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如意輪観音堂

H28.4.9(土) その6  1 2 3 4 5 6 7 8


虚空蔵堂に続く道を進むと、右手に観音堂(如意輪堂)がある。

 観音堂(如意輪堂)

DSCN0432 観音堂

黒岩満願寺展図録には、次のように記されている(p.13)。

  堂は宝永7年(1710)の建立で宝形造りである。古い満願寺
 境内絵図には観音堂は南面して建られて描かれている。現在は東
 面になり如意輪堂とも呼ばれている。

     
  黒岩虚空蔵堂および満願寺境内絵図
   (小倉寺白山道 加藤夢之助蔵) - 黒岩満願寺展図録(p.7)
年不詳、黒岩虚空蔵堂および満願寺境内絵図
     

DSCN0433 観音堂

「福島市の文化財 福島市文化財調査報告書第5集」(昭和42年 福島
市教育委員会)は、次のように記述している(p.24)。
  
  この観音堂は米沢藩主上杉定勝の四女於(お)サン、即ち吉良
 上野介義央
の室となった梅嶺院殿が寄進した持仏の観音像安置の
 ために建立されたものである。
  本尊は像高17㎝ほどの木造如意輪観音で、六角の框座の上に
 座している。如何にも夫人の持仏らしく、框座の各面に梅の文様
 が施こされており、光背には小さな三十三観音が浮彫りされてい
 る。
  お像は黒塗り(漆)の厨子(高さ53㎝正面幅27㎝)に納めら
 れており、厨子の内壁には、鳳凰と飛雲が上部に、下部には蓮花
 が金泥で繊細に描かれている。


    DSCN0435 観音堂

如意輪堂にかけられた案内板には、次のようにあった。

 如意輪堂 
 本堂は江戸時代宝暦年間の建立にして二百余年を経る 当本尊は
 吉良上野介内室梅嶺院(俗名サン)の朝夕礼拝念持せし吉良家の
 家宝如意輪観世音菩薩で元禄時代の代表的彫刻による御尊像で
 ある。当寺は米澤上杉公と関係深く他に吉良上野介室の枕屏風・
 打掛等保存しあり。
                  当山住持


 木造如意輪観音像 - 同報告書 p.24 -

   如意輪観音


観音堂の前に案内板が立っている。いくつか気になる表記があった。

観音堂

① 「元禄年間(1688~1703)に建てられたといわれて」とあるが、
  黒岩虚空蔵展図録の「如意輪観音堂棟札」についての次の説明
  (p.13)のとおり、「宝永7年(1710)」と解すべきだろう。

    吉良上野介夫人念持仏安置の観音堂棟札で、両面に墨書
   銘がある。表は長文の銘文で、これによると、第5世月峯
   (後に霊嶽)によって、宝永7年10月(1710)に建立さ
   れた堂であることがわかる。


② 「大石内蔵助の敵となった、吉良上野介」とあるが、赤穂浪士の
  「敵」は、吉良上野介義央ではなく、浅野内匠頭長矩に即日切腹
  を命じた幕府でなければ筋が通らないと思うが、どうだろうか。
  菊池寛『吉良上野の立場』(昭和6年)は、次の言葉で終わって
  いる。

   ・ 何が卑怯か、わしには正しい言い分があるぞ!
   ・ 大石にも、不当に殺される者の怒りが分からんのか


③ 「吉良家にとついで梅嶺院と呼ばれ」とあるが、「おサン」は吉良
  家に嫁いだ後「富子」と改名しており、「梅嶺院」と号したのは上
  野介の死去(元禄15年(1702)12月)後、落飾してからである。

④ 「如意輪観音をここに寄進されたという」とあるが、その時期は、
  梅嶺院の生存中なのか没後なのか、いつのことだったのだろう。

梅嶺院の兄は、米沢藩第3代藩主の上杉綱勝。寛文4年(1664)に嗣子
の無いまま急死したので、本来ならば米沢藩は廃絶となるところ、上野
介の嫡男三之助(後の第4代藩主上杉綱憲)が末期養子として認められ
て存続できた。吉良家では、嫡男とした次男の三郎が夭折し、他に男子
がなかったことから、元禄2年(1690)に、綱憲の次男の春千代を養子
として迎えた。後の吉良左兵衛義周である。

その義周は、赤穂事件の翌年に、「その夜のはからひよからず」とされ、
改易のうえ信濃諏訪藩(高島藩)の第4代藩主諏訪安芸守忠虎にお預け
となり、高島城に幽閉された。

梅嶺院は、綱憲の死(宝永元年(1704))の2か月後に、上杉家下屋敷
で死去している。

梅嶺院のお墓は、母親の生善院(米沢藩第2代藩主上杉定勝の側室。宝永
3年歿)が中興開基したとされる、広尾2丁目にある東北寺にあり、生善
院のお墓と並んでいるとのこと。

米沢の法泉寺にも梅嶺院のお墓がある。この寺は、姉の亀姫(定勝の三
女。大聖寺藩の第2代藩主前田利明の正妻。寛文4年(1664)歿。)の
法名(法泉院殿。「当寺の中興」。)をとって、元禄3年(1690)に、
禅林から法泉と寺名が改められた。こちらは、姉妹のお墓が並んでいる
そうだ。

鈴木由紀子『義にあらず』は、梅嶺院と姉の松嶺院(定勝の長女・徳姫。
大聖寺藩の初代藩主前田利治の正妻。貞亨2年(1685)歿)が語り合う
場面を描いている(p.136)。

  「ここにくるとなにもかも忘れて心が落ち着きます」
   松嶺尼はだまって富子の話を聞いていた。
  「衆生済度を願って御仏に仕えているお姉さまが、時折うら
  やましく思えてなりませぬ。わたくしなど煩悩にふりまわさ
  れて日々すごしております」
   いっさいのしがらみからとき放たれて、姉のように仏道に
  帰依できたら、平安な心で生きられるような気がした。


梅嶺院は、波乱に満ちた人生の中で、如意輪観音像を前に、日々何を
念じ続けてきたのだろうか。その思念(おもい)を知ろうと、本を読
んだり、ネットで調べたりしてきたが、おぼろげながらも知るほどに、
どうしようもなく切ない思いに駆られてしまう。

義周は宝永3年(1706)、配流先で死去した。

平成20年(2008)に諏訪へ旅行した際に、最初に訪ねたのが法華寺で
あり、その裏山にある義周の墓だった。名門吉良家断絶の壮絶さに、
何とも遣り切れない思いに襲われたのを、今もはっきりと覚えている。

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  1. 2016/07/25(月) 05:35:43|
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黒岩のツバキ

H28.4.9(土) その7  1 2 3 4 5 6 7 8 ・・・

観音堂から虚空蔵堂へ向かう道には、ヤブツバキ《藪椿》の花が
落ちていた。

IMGP0336


お目当てのヤブツバキはもうほとんど終わってしまっていたが、
虚空蔵堂の手前には、散り椿がまだたくさん残っていた。

IMGP0349


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IMGP0398


見ごろは過ぎていたが、ツバキは落ちた姿も、散った姿も楽しめる。
満願寺の紅葉も美しい。その時季になったら、また来ようと思った。


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  1. 2016/07/25(月) 21:49:25|
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