独りよがりのつぶやき

花の写真を中心とした 気ままなブログです

龍應山西明寺

H28.11.21(月) その4  1 2 3 4


多賀大社を後にして西明寺へ向かった。思ったより近く10分余で着いた。
駐車場には、大型の観光バスや乗用車が、もうすでにたくさん入っている。
事前に計画した通り、上の駐車場に向かうよう、運転手さんにお願いした。

参拝を終えたのだろうか、列をなして下りてこられる方々に、車内で身を
小さくしながら頭を下げ続け、中門前の駐車場に着いた。

参道沿いの見事な紅葉の前には、たくさんの人だかり。大変な混雑で、身
動きもできないような凄まじい光景に、ただただ驚いた。

 庭園(表庭)出入口 

1611210947 庭園出入口


 蓬莱庭入口(左の門)  ここから本坊庭園「蓬莱庭」に入る。

1611210948 蓬莱庭出入り口


 西明寺のフダンザクラ《不断桜》(滋賀県指定天然記念物)  

1611210950 不断桜


 黄葉

1611210951 黄葉


 紅(黄)葉

1611210952 紅(黄)葉


 庭園出入口

1611210954 庭園出入口


 西明寺本坊庭園(名勝)(蓬莱庭)  江戸時代初期の作庭

1611210959 蓬萊庭(国指定名勝)


 黄葉

1611211001 黄葉


 西明寺本堂(国宝)  鎌倉時代前期の建築

1611211006 本堂(国宝)  


 西明寺三重塔(国宝)  鎌倉時代後期の建築

1611211009 三重塔(国宝)


西明寺の山号は、西明寺のある場所が琵琶湖の東の方角に位置することか
ら、四神の青龍に因み、「龍應山」と名付けられたとか。また、水への信
仰からともいわれている。

本堂のご本尊、木造薬師如来立像(重文)は、延暦寺の方に向いて安置さ
れ、根本中堂ご本尊の薬師如来に対し、「湖東の薬師如来」と呼ばれてい
るとのこと。

西明寺は、湖東三山のうちでは最も新しい創建で、一番北に位置し、平安
から室町時代にかけ、祈願道場として、また修行道場として栄え、17堂宇、
300坊を擁する大伽藍であったと伝えられている。

元亀2年(1571)、比叡山を焼き討ちした織田信長は、同時に比叡山の勢
力下にあって反抗を続ける近隣の天台寺院へも焼き討ちを進めた。ここ西
明寺も焼き討ちを受けるが、これに対し、多くの僧侶と農民が協力して寺
を守ったとか。

山門近くの坊舎を激しく燃やし、全山が焼失しているかのように見せかけ
たことから、命を受けた丹羽長秀(長男は白河藩主丹羽長重)と河尻秀隆
らは、これを見て撤退したそうだ。

これにより、本尊、本堂、三重塔、二天門(重文)など多くの寺宝が焼失
の危機を脱し、今に残されたと伝えられている。

旅行前の下調べで、春と秋の年2回のみ公開される「三重塔初層壁画」が、
今月末まで公開(雨天中止)されていることを知った。計画時点から楽し
みにしていた、期待の拝観の一つ。雨は降っていなかった。幸運だった!

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  1. 2017/06/17(土) 22:42:54|
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お多賀さん

H28.11.21(月) その3  1 2 3 4

運転手さんが、「佐和山城は跡形もなく徹底的にこわされてしまいましたが、
地元では、三成公は今でもとても慕われているんですよ。」と教えてくれた。

また、「途中、多賀大社の前を通りますが、この大社は滋賀県内では初詣客
が最も多く、「お多賀さん」と呼ばれて親しまれているんです。ちょっと車
を止めて参拝しましょうか」と話された。

5月に伊勢参り。「お伊勢参らばお多賀へ参れ」とか。 車を止めてもらった。


 太閤橋  秀吉が大政所の病気平癒を願って寄進した「太鼓橋」。 

11210918 太閤橋・御神門


橋を登らずに左を回り、表門を潜ると、

11210920


 拝殿  正面に拝殿。手前左は手水舎。右にはおしゃもじ型の絵馬が。

11210921 拝殿


拝殿の奥には神楽殿が、

11210922


 神楽殿内観  奥には幣殿、本殿が。右端は「お多賀杓子」

11210924 神楽殿


 拝殿西袖廻廊  拝殿に向かって左。

11210929 翼廊(左) 


 拝殿東袖廻廊  拝殿に向かって右。

11210926 翼廊(右)


11210925


 神符授与所  たくさんのおみくじが。  

11210928 社務所


こちらにも、苔むした石灯籠を隠すほどのおみくじが。

11210932


おみくじの、あまりの多さに驚いた。

多賀大社のお守りとして知られる「お多賀杓子」は、「お玉杓子」や
「オタマジャクシ」の語源とされている。 面白いものだ。

多賀大社は、いろんな願いごとをかなえてくれるパワースポットとか。
かみさんたちは何を願ったのかなと思いながら、タクシーに乗った。

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  1. 2017/05/20(土) 05:02:22|
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弘徳山龍潭寺

H28.11.21(月) その2  1 2 3 4

 朝の彦根城  昨夜来の雨がやんでいた。

彦根城


フロントに下りたら、一ヶ月前に予約したタクシーが、すでに待機していた。
おだやかな感じの、一寸年配の運転手さんと挨拶を交わし、タクシーに乗車。
湖東三山(百済寺・西明寺・金剛輪寺)と永源寺を巡る一日がスタートした。

運転手さんが、「時間があるので龍潭寺(りょうたんじ)を回られては如何で
しょうか?」と勧めてくれた。5月に浜松を訪ねたときには龍潭寺を訪ねる
ことが出来なかったので、即「お願いします!」と独断で答えた。

彦根の龍潭寺は、関ヶ原の戦いの戦功により佐和山藩主となった井伊直政の
遺言により、遠州井伊谷にある龍潭寺(井伊家菩提寺)の五世昊天(こうてん)
禅師を開山とし、この佐和山の西麓に分寺されたもの。慶長7年(1602)か
ら建設が始まり、諸堂が完成したのは元和3年(1617)とか。

入口を入ったら、参道を悠々と闊歩しているお猿さんに出会った。なんと、
屋根の上にも数匹。皆で驚いたり、喜んだりして、思わぬ遭遇を楽しんだ。

このお寺さんは、佐和山を借景にして造られた庭園や森川許六筆と伝わる方
丈の襖絵が有名らしい。拝観が始まる時間までには30分近くもあったので、
それらは割愛し、佐和山ハイキングコース入口までの往復にとどめた。


 総門  龍潭寺は「佐和山」の麓にあるが、山号は何故か「弘徳山」。

総門


 参道  敷き紅葉。 龍潭寺垣と呼ばれる竹垣が続く。

参道


 紅葉  見ごろは過ぎていたが 綺麗だった。  

紅葉


 山門  龍潭寺は 佐和山の麓にひっそりと佇んでいる。

山門


 大洞観音堂  観音堂右脇を入ると 佐和山ハイキングコースとなる。 

大洞観音堂


 中門脇の壁  戦に備えてだろうか 瓦が埋め込まれている。

中門脇の壁


 紅葉  朝の冷気に しっとりと色づいていた。

木立ち


 大久保忠隣 幽居之跡  右端の石柱は 「大久保忠隣幽居之跡」の碑

大久保忠隣幽居之跡


 石田三成公像  台座裏に 「彦根石田三成公顕彰会建之」とあった。

石田三成公像


  散り残る紅葉はことにいとおしき秋の名残はこればかりぞと 三成 

ここには、石田三成、井伊直政、大久保忠隣が同居している。何とも不思議
な空間だが、静寂で落ち着いた佇まいに、こころが洗われるお寺さんだった。

  冶部どのも今日瞑すらむ蝉しぐ禮 吉川英治

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  1. 2017/04/27(木) 12:25:16|
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ひこにゃん!

H28.11.20(日) その1  1 2 3 4

7月に那須温泉で兄妹会があった折、千葉の義姉から、どこか紅葉を見に行き
たいねと話があった。「プランは大ちゃんに任せるから」と一方的なお達し!

「それでは三尾の紅葉に!」と一瞬思ったが、如何せん、皆さん歩くのは苦手
な年寄りばかり。 別の所はないかと調べていたら、湖東三山に辿り着いた。

また、たまたま石山寺のご本尊、秘仏である如意輪観世音菩薩像の特別拝観が
あることも知り、湖東三山と組み合わせ、次のとおりプランをつくってみた。
 
 一日目 ⇒ 彦根城(泊:彦根市内)
 二日目 ⇒ 湖東三山(西明寺~金剛輪寺~百済寺)・永源寺(泊:野洲市内)
 三日目 ⇒ 石山寺・三井寺

この内容でどうかと確認したら早速OKの返事。出発日も11月20日と決まり、
その1ヶ月前には詳細な内容を確定したうえ、宿や列車の手配を済ませた。

以下は、この旅行の記録。何回の連載になるかは不明だが、先ずはスタート。
 
 福島07:39発 やまびこ120号 ⇒ 東京09:12着 09:33発 ひかり507号
   ⇒ 姉夫婦と品川駅で無事合流。 品川09:40発 ⇒ 米原11:44着。
   ※ 途中、三島を過ぎて数分のあたりで、富士山が綺麗に見えた。

  車窓からの富士山 10:26撮影

富士山

米原12:00発⇒ 彦根12:05着。送迎バスでホテルに着き、荷物を預かっても
らってから、昼食を済ませ、彦根城へ向かった。表門から入って直ぐの彦根
城博物館前(冠木門)に人だかりがしているので何ですかと尋ねたら、雨が
降った後なので、ここにひこにゃんがやってくるとのこと。ラッキーだった。

 ひこにゃん、登場! 何とも可愛い。 つい、顔の筋肉が緩んだ。

ひこにゃん


 琵琶湖がうっすらと 彦根城天守の西側。霞んでいた。ん~残念!

琵琶湖


 彦根城天守(北面) 国宝の天守、附櫓(写)及び多聞櫓(左奥)

彦根城


 石垣 そそり立つ石垣の連なり・・・手前は井戸曲輪下、奥は本丸。壮観!

石垣


 土塁と紅葉 石垣の苔の緑とはまた異質の、静かな雰囲気が。

土塁と紅葉


 内堀の紅葉 黒門橋から西方向を眺める・・・あれ、屋形船?

内堀の紅葉


 楽々園 御書院(玄宮園・楽々園) 保存整備事業は平成37年まで。

槻御殿(現・楽々園)内の御書院


 玄宮園 庭園(玄宮楽々園) 美しい景観だ。

玄宮園


 埋木舎(うもれぎのや) 護国神社の築地塀と柳並木の間を・・・単独行

埋木舎へ


 埋木舎 世の中をよそに見つつもうもれ木の埋もれておらむ心なき身は

埋木舎


 茶室「澍露軒」 茶の湯とて何か求めんいさぎよき心の水をともにこそ汲め

茶室


 滋賀縣護國神社 明治2年(1869)の招魂碑(大洞龍潭寺)⇒ 招魂社⇒ 神社

滋賀縣護國神社


 彦根城ライトアップ 「城見のテラス」から多聞櫓など。「城あかり」

彦根城ライトアップ


ホテルの大浴場からも見えた。これでお酒でもつけば申し分ないな、と思って
風呂を出たら、何とビューラウンジにビールが用意されていた。皆で飲みなが
ら、楽しく過ごした。先ずは幸先の良い初日。ひこにゃん、お休みなさ~い!

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  1. 2017/03/30(木) 07:37:32|
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高雄・北山杉

H28.8.17(火) その12  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12

いよいよツアー最後のメニュー、高雄のもみぢ家別館での昼食、川床料理を
残すのみとなった。

高雄というと、半世紀も前のことになるが、土門拳が撮影した神護寺の薬師
如来立像や、島田謹介が撮影した北山杉の写真に強い感銘を受け、神護寺を
訪ねたり、周山街道沿いの北山杉を見に行ったときのことを思い出す。 

 薬師如来立像 - 土門拳 撮影 -
     (「日本の彫刻 上古-鎌倉」-1960 美術出版社)

    神護寺:薬師如来立像

  第一等の仏像はと問われると、木造では神護寺本堂の薬師如来・・・
     (土門拳「古寺巡礼」第4集-1971年 美術出版社)

  神護寺薬師如来立像はその眉、その目、その鼻、そのきりりとしまった
  男性的な唇を持つ顔に一番の魅力がある。この仏像を模倣したと思われ
  る仏像はたくさんあるが、その目、その眉、その鼻、その唇をまねした
  と思われるものは一つもない。この仏像は真に男らしい男の像という点
  において日本唯一である。

     (土門拳「わが仏像十選」-「文芸春秋」臨時増刊 昭和47年)


 北山杉 - 島田謹介 撮影 -
      (太陽(1963年11月号)-特集「京都の四季」 平凡社)

島田謹介「北山杉」

  私のもっとも好きなのは、北山杉の美しい林相を見ること・・・
     (島田謹介「私の好きな京都」 -太陽 1963年11月号)

  桜はもうあかんけど、北山杉が見たいわ。高雄から近おすやろ。
  北山杉のまっすぐに、きれいに立ってるのをながめると、うちは
  心が、すうっとする。杉まで行っとくれやすか。

     (川端康成「古都」(1962 新潮社)<北山杉>)

神護寺には、伝頼朝像などの、いわゆる「神護寺三像」がある。見ているは
ずなのだが、明瞭に思い出すことが出来ない。ご本尊の薬師如来立像にして
も、写真ほどの強烈な印象が浮かんでこない。北山杉も周山街道沿いに見て
いるが、どうしたことか、こちらも写真ほどの強い記憶が残っていない。

現実に見た顔立ちや風景よりも、写真家の眼と心で切り取られた写真の方に、
より以上の力強い、迫力あるリアリティーを感じてしまうのは、一体どうい
うことなのだろうか。いつも不思議に思う。

高雄や北山杉というと、川端康成の「古都」も思い出される。朝日新聞に連
載されたのが60年安保の翌年(1961年)10月で、川端康成はその翌月に、
文化勲章を授与された。

「古都」の連載は翌年1月に終わるが、2月に睡眠薬の禁断症状により入院。
入院中に、東山魁夷から「冬の花」と題する絵を贈られる。川端康成は、6
月に単行本「古都」を刊行するに当たり、この絵を口絵として用いている。

 冬の花 - 東山魁夷 1962年 -
     (川端康成「古都」(1962 新潮社)口絵)

『冬の花』


川端康成は、「あとがき」で次のように述べている。

  口繪の東山魁夷氏の「冬の花」(北山杉)は、36年の私の文化勲章の
  お祝ひにいただいたものである。「冬の花」といふ画題は「古都」の
  終章の見出しにちなみ、作中にある北山杉を描いて下さったのである。
  37年の2月・・私の病室へ、東山夫妻がこの繪を持って來て下さった。
  病室で日毎ながめてゐると、近づく春の光りが明るくなるとともに、
  この繪の杉のみどり色も明るくなって來た。

     
1968年、川端康成はノーベル文学賞を受賞する。東山魁夷は、そのお祝いに、
「冬の花」と同じ構図の「北山初雪」を贈る。川端康成に勧められて、3年位
で纏めようとしたが9年がかりで完成した、連作「京洛四季」の一つだ。

 北山初雪 - 東山魁夷 1968年 -
     (東山魁夷「京洛四季」- ビジョン企画出版社 1998)

東山魁夷『北山初雪』

   冬は北山から来る。洛南のほうではよく晴れた日に、遥かに連なる北
  山が、群青に翳り、また明るく照り、まるで澄みきった水の中のように
  はっきり見えているのに、その山並みの一部分に層を重ねた雲が、灰色
  をぼかし込んでいるのを見ることがある。そんな時は、北山のどこかに
  冷たい雨が降りかかっているか、あるいは、小雪でも舞い落ちているに
  ちがいない。
   十二月に入って間もなくの明るい朝だった。高尾の谷あいには、まだ
  おそい紅葉がわずかに残っていた。栂尾を過ぎると北の杉山が、うっす
  らと雪に蔽われているのを見て驚いた。
   陽の当る山の斜面は、梢に丸く残された葉の繁みが、粉を振りかけた
  ように白くなって重なり並び、その間を真っ直ぐな幹の列が、明暗の縞
  模様を描いてリズミカルに連なっていた。片側の蔭になった暗い谷は、
  伐採された斜面だけが白くなって、立ち並ぶ杉の繁みを錆群青の深い色
  に沈め、その上に置く雪を青味のあるグレーに見せていた。


手元にあるビジョン企画出版社の「京洛四季」に、北山杉を描いた「青い峡」
がある。凛としてスッキリと伸びている北山杉。青山ブルーで描かれた美しい
作品だ。

 青い峡 - 東山魁夷 1968年 -
     (東山魁夷「京洛四季」-ビジョン企画出版社 1998)

東山魁夷『青い峡』



もみじ家本館前に着いた。ここから神護寺へは歩いて20分くらいだが、今回
のツアーではその予定もない。待つこと10分ほどで、別館に行くバスが来た。

待っている間に、♪ 京都 大原 三千院・・・♪ と聞こえないほどの小さな声で、
「女ひとり」を口ずさんでいた。昨年亡くなられた永六輔さんの歌詞で、2番
♪ 京都 栂尾 高山寺・・・♪ 、3番は ♪ 京都 嵐山 大覚寺・・・♪ で始まる。

大好きな歌でよく歌ったが、2番で連想するのは、常に高雄山神護寺だった。
それもそのはず、「三尾」の中で訪ねたことがあるのは神護寺だけで、高山寺
も西明寺も訪ねたことがない。

 もみじ家別館:吊り橋 - 清滝川に架かる吊り橋を渡り、「川の庵」へ。

もみじ家別館:つり橋

 清滝川 - 座席について早速に生ビールを注文。すぐにお代わりも頼んだ。
      食事が済むのを見計らってから、「カワセミが飛んでいますよ」
      と声をかけたら、みなさん総立ちになり、「あ、いた!いた!」
      「皇居のお堀では」「茨城では」「初めて見た!」などと、カワ
      セミの話題で大いに賑わった。

高雄:清滝川

      上流へ向かへば、槇尾山西明寺栂尾山高山寺と続く。
      はたして、元気なうちに訪ねることが出来るだろうか。
      その機会があれば、紅葉の時期に来たいものだと思った。

清滝川

京都駅に着いてから、1時間以上余裕があった。ショッピング後、ホームに出
たら、例のメンバーの一人が 「生ビールがあるよ!」と教えてくれた。即刻
買い求め、車中に乗り込んだ。

京都駅16時29分発(のぞみ384号)の車両が動き始めた。すぐに生ビールを
グイッと飲んだ。とても美味しかった。 途中、新横浜と品川で下車する参加
者がいた。別れの挨拶に大きく手を振ったのも束の間、18時50分に東京駅に
着いた。東京駅19時16分発のやまびこ157号に乗り換え、福島駅に着いたの
が20時53分。タクシーに乗って、自宅に戻った。

奈良と京都、二つの古都を訪ねるツアーが終わった。今、無事に旅行を終える
ことが出来たことに、大きな感謝をしている。そして、充実した内容を満喫で
きたことの嬉しさが、じわじわと湧き上がっている。

自信がついたのだろうか、また古都を訪ねる機会を得たいと思うようになった。
いつになるかは定かでないが、近いうちに実現することを夢見ながら、楽しい
想いに浸っている。

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  1. 2017/03/13(月) 23:18:32|
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大河内山荘

H28.8.17(火) その11  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12

天龍寺の北口から竹林の径へ出た。ものすごい人込みだ。早くこの雑踏から
脱出しようとかみさんに言ったら、大河内山荘の方は静かなはずよ、と教え
てくれた。バスの出発時間までにはまだ余裕があり、また、山荘まで足をの
ばしたこともなかったので、それではと向かった。

入口前には入るかどうか迷っている人たちが数多くいたが、外国人が迷いも
なく受付に向っていたのには驚いた。事前に調べ上げて来ているのだろう。

大河内山荘は、"あの"と言ってもその名を知る人は少なくなっているのだろ
うが、「シェイはタンゲ、ナはシャゼン」(姓は丹下、名は左膳)という独
特の台詞回しで知られた往年の名優、大河内傳次郎が造営した別荘だ。

パンフレットには、次のようにあった。

 大河内山荘は・・・時代劇の名優大河内傳次郎(1898〜1962)が、
 昭和6年 (34歳)から64歳で逝去するまでの、30年の歳月にわたり、
 消えることのない美を求めて、こつこつと創りあげた庭園・・・


園内には、登録有形文化財の中門・大乗閣・持仏堂・滴水庵が点在している。
順路に従い園路をゆっくり進んだ。竹林の小径とは異なり、さすがに静かだ。


 中門 - 庭園の内と外を区切る。面白味があり、親しみを覚える。

中門


 大乗閣 - 別荘の中心施設。「数寄屋師笛吹嘉一郎の代表作」とか。

大乗閣


 持仏堂 - 昭和6年、「山荘の全ては此処から始まりました」

持仏堂


 茶室滴水庵の前庭 - 苔がとても美しい。

滴水庵と前庭


 嵐峡展望台から 展望がパッと開ける。

  嵐山 - 眼前には嵐山(標高381.5m)が。中腹のお堂は大悲閣

大悲閣千光寺(1)


  大悲閣千光寺 - 角倉了以によって創建された。

大悲閣千光寺(2)


 市内展望台から 月香亭(げっかてい)。標高は120m近くか。

  案内板 - 仁和寺の塔を探したが見つからず。

案内板


  京都盆地展望 - 京都盆地を一望できる。遠くには比叡山が。

京都盆地展望


 瓦を敷き詰めた園路 - 園内には様々な意匠の園路があり、楽しめる。

園路


園路を下った先の記念館を覗いてから、抹茶と和菓子をいただき、山荘を
後にした。

ここには、昨日見た二条城や高台寺の庭園、つい先ほど見た天龍寺の庭園
とは異なる、とても静寂で、落ち着きのある情趣があった。また、何より
も、ハッと息をのむ素晴らしい展望があった。園内を進むにつれ、身も心
も、自然に包まれて溶け込んでしまったかのような、そんな気分になった。

大河内伝次郎は、この嵯峨野小倉山の山麓に、映画出演料の大半を投じ
て、山荘の造営に取り組んだ。

庭づくりに人生をかけた、強靭な意志とひたむきな情熱。その感嘆せずに
はいられない凄まじいまでの生きざまとは、一体何だったのだろうか。

機会があれば、再び山荘を訪ね、「消えることのない美」を求めた大河内
伝次郎の姿に接したいと思った。

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  1. 2017/02/23(木) 21:46:34|
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歷應資聖禪寺

H28.8.17(火) その10  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12

二条城から天龍寺へ向かった。

天龍寺の寺号は、霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)。
HPには、「足利尊氏を開基とし、夢窓疎石を開山として開かれたのが天
龍寺で、その目的は後醍醐天皇の菩提を弔うため暦応2年(1339)に創建
された」とある。

後醍醐天皇の崩御は、歴応2年(1339)8月16日。天龍寺造営記録には、
「足利尊氏・直義両将軍の哀しみと恐怖は、とりわけ深かった。報恩謝徳
のため、かつ、怨霊納受のため、あらたに寺院を建立し」とあり、寺の名
は10月13日に、年号に因み、「霊亀山歴応資聖禅寺」と名付けられた。

2年後の歴応4年(1341)7月13日に地曳(地鎮祭)が行われたが、22日
には寺名が「霊亀山天龍資聖禪寺」と改められ、「歴応寺」の名は1年9ヵ
月で消えた。 短命だった。

天龍寺の落慶供養は、後醍醐天皇七回忌にあたる康永4年(1345)の8月
29日に行われ、翌30日光厳上皇が臨幸された。太平記は「上古にも末代
にも有難かりし供養也」と記している。


 庫裏の前のミニ庭園 大きな石組み・・・滝なのか、それとも龍か?

庫裡の前の石


 玄関正面の大衝立達磨図 平田精耕老師(第9代管長)(241世) 筆

   達磨図 -前管長平田精耕老師筆


 「方丈」の扁額 関牧翁老師(第8代管長)(241世) 筆

「方丈」の扁額


「方丈」の説明


 方丈前庭(東庭) 中門の先には法堂

本坊東庭(1)


本坊東庭(2)


本坊東庭(3)


 曹源池庭園  方丈の西に広がる

曹源池庭園(1)


曹源池庭園(2)


曹源池庭園(3)


 小方丈(書院)の掛け軸 大衝立のと同じく平田精耕老師の筆とか

小方丈(書院)の掛け軸


 大方丈の『雲龍図』(襖絵) 曾我蕭白キャノン寄贈:高精細複製品

雲龍図(襖絵)(1)


雲龍図(襖絵)(2)


雲龍図(襖絵)(3)


水上勉は、『古寺巡礼 京都 天龍寺』(淡交社 1976)の中で、次のよ
うに記している(「天龍寺幻想」)(p.69)。

  天龍寺の名には格別の語感があると思う。等持院できいた先輩の
 話だと、龍は禅の護神だということである。護神が天に向かって登
 る、この姿には、あの法堂の天井の龍の絵もかさなってつきものの
 巻雲が荒々しく想像されてくる。南禅・東福といえば、ぼくにはや
 わらかいが、天龍は男性的である。馬鹿げたことをいうようだが、
 じつはこの思いは少年時からあって、前記した本山への畏怖感も、
 寺名からきている。誰もこの世で龍をみたことがないだろう。その
 怪物を名に冠しているのだ。ただものでない寺の背景があって、容
 易に近よせない冷たさも感じられる。
  霊亀山とくれば尚更、この嵯峨の一角はきびしく深まる。


寺名に年号を用いたことに猛反対したのは、比叡山延暦寺。この騒ぎを
収めるためだろう、直義が夢に見た金龍に因んで「天龍」と改められた。
水上勉は、天龍寺幻想で次のように書いている(p.73)。
 
 この寺が天龍と名をかえたのは、直義が一夜夢見に、川から巨大な
 金龍があがるのをみて、寺名を改めたことになっている。川とは大
 堰川だろう。ぼくはいま、直義が見た夢の、龍がどんなものだった
 か想像する時、国師が当の直義に与えた文章を想起する。
  「元弘以來の御罪業と其の中の御善根とをたくらべば、何をか
  多しとせんや。此間も御敵とてほろぼされたる人幾何ぞ・・・
  御敵のみにあらず、御方とて合戰して死したるも、皆御罪業と
  なるべし・・・。今も連々に目出たきことのあると聞こゆるは、
  御敵の多くほろびて罪業のかさなる事なり」


引用された文章は、「夢中問答」の「17 佛法と政道」の一部で、足利直
義の次の問いに夢窓国師が答えたもの。  

 問 あまりに善根に心をかたぶけたる故に政道の害になりて、
   世もおさまりやらぬよしを申す人あり。其の謂はれありや


夢窓国師は答えて、さらに続ける。

 仁義の德政はいまだ行はれず、貴賤の愁歎はいよいよ重なる。
 世上の靜謐せぬことは偏に是れ此の故なり。何ぞ御心を善根に
 かたぶけ玉ふことの故ならんや。


吉川英治『私本太平記 黒白帖』の≪国土病む≫には、次のようにある。

  年は明けた。
  北朝の、建武四年
  南朝では、延元二年
  おかしなことだが、こう真二つに、ひとつ国土が割れ、二つの年号を
  称え、それぞれ異なる正月を迎えたのだった。
 日本の分裂症時代、“南北朝”とよばれる畸形な国家へ突入して行った年
 を、この春とすれば、以後、その大患はじつに、五十七年間もつづいた
 のである。
  これまでで、もうたくさんであったろうに、まだこの先、いぜんたる
 血みどろやら謀略の抗争を半世紀もやりつづけなければならないとは。
  たれが予想したろうか。
  たれもそんな予想はしなかった。願ってもいなかった。


黒白帖の最後、≪黒白問答≫の一つに、次の問答があった。

 問 「ではまだ当分続くのでしょうか、こんならちゃくちゃのない風潮
   と、暗黒時代が」
 答 「が、必ず朝は来ます。朝の来ない夜はない」



後醍醐天皇は、延喜・天暦の昔に立ち帰ることを夢見た。尊氏は、家時
遺した鑁阿寺(ばんなじ)置文に記された悲願の実現を夢見た。そして、
直義は、北条泰時の治世をみならい政治を進めようと夢見た。

それぞれがそれぞれの夢を実現しようとして、どれだけ多くの血が流され
たことか、どれだけ多くの恨みが生まれたことか。

次の歌は、3人が師と仰いだ夢窓国師が詠んだもの。何故かこころに響く。

 打つ人も打たるゝ人ももろともに唯一ときの夢の戯れ

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  1. 2017/02/07(火) 23:06:31|
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元離宮二条城

H28.8.17(火) その9  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12

今日は旅行の最終日。最初の見学先の二条城は、ホテルからは目と鼻の先。
出発時間が若干繰り上げられたので、開城時間(8:45)の直前に着いた。
入り口の東大手門は、来年3月までは修理工事中でシートに覆われていた。
代りに?記念撮影用だろうか、大きなパネルが用意されていた。

二条城の築城は、家康により、関ケ原の戦いの翌年に天下普請として始め
られ、慶長8年(1603)に竣工した。その後、三代将軍家光のときに、後
水尾天皇の行幸(寛永3年(1626))を迎えるための大改築が行われ、今
日見るような形で整備されたとか。

明治17(1884)に宮内省の所管となり、「二条離宮」と改称されたが、
昭和14年(1939)に京都市に下賜され、現在は、「元離宮二条城」が正
式名称となっている。


 【東大手門】  二条城の正門

東大手門


 【二の丸御殿】

  唐門  二の丸御殿の正門  

二の丸御殿唐門


  車寄  二の丸御殿の玄関

二の丸御殿車寄


  遠侍  大名の控えの間  

二の丸御殿遠侍


  庭園側から見た二の丸御殿  右から遠侍・式台・大広間

庭園側から見た二の丸御殿


  庭園  別名「八陣の庭」

二の丸庭園(1)


二の丸庭園(2)


二の丸庭園(3)


 【本丸御殿】

   創建当時の本丸御殿は、二の丸御殿にほぼ匹敵する規模をもち、
   また、本丸には五層の天守閣が聳えていたが、寛延3年(1750)
   に落雷のために焼失、さらに天明8年(1788)には市中の大火
   のために殿舎をも焼失したそうだ。
    
   現在の本丸御殿は、京都御苑今出川御門内にあった旧桂宮邸
   御殿を、明治26年から27年にかけて本丸内に移築したもの。

  御常御殿  中二階があるので三階建てのようにみえる

本丸御殿御常御殿(1)


  御書院・御常御殿  皇女和宮は、14代将軍家茂に嫁がれる前に、
            旧桂宮邸に約1年8ヶ月間住んでおられた。

本丸御殿:御書院・御常御殿


  天守台から北東を望む  遠くには比叡山の姿も

本丸御殿天守台から北東を望む


  庭園  明治29年(1896)に完成した回遊式洋風庭園

本丸御殿御常御殿(2)


  玄関  二の丸御殿とは異なり、落ち着いた雰囲気がある。
      現在は、耐震性が十分でないため、公開されていない。

本丸御殿玄関


  シダレエンジュ《枝垂れ槐》  北大手門に向かう途中で

シダレエンジュ(1)


シダレエンジュ(2)


二条城については、家康と秀頼の対面大政奉還の舞台となった程度
の知識しかなかったが、今回の旅行でいくつか興味あることを知った。

 ・ 江戸時代の洛中洛外図では二条城を描くものが多い。中には、
  秀忠の五女和子後水尾天皇の女御として入内した際の行列
  や、後水尾天皇の二条城行幸の様子を描いたものがある。
 ・ 後水尾天皇は、京都御所など京都にある皇室関連施設のすべ
  てに関わりを持っている。
 ・ 古田織部の切腹・家財没収の理由は、夏の陣で、織部の家臣
  が二条城に火をかけ、家康、秀忠の暗殺を陰謀していたこと
  が発覚したこととされているが・・・。
 ・ 嘉永7年(1854)の大火による内裏の類焼により、孝明天皇
  は、下鴨神社、聖護院へと難を避け、さらに延焼を免れた桂宮
  邸を仮御所とし、新御所が完成するまでの約1年半を桂宮邸で
  過ごされた。


徳川和子は二條城から御所へ向かい、皇女和宮は桂御所から江戸城へ
向かった。今ここに、「和」で繋がるお二人がおられたら、一体どん
なことを語り合っておられるだろうかと、ふと思った。

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  1. 2016/12/21(水) 16:19:03|
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御所と六角堂

H28.8.17(火) その8  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12

今日は旅行の最終日。スッキリと目覚めた。
窓の外がかなり明るんできたので、そっとカーテンを開いた。

 【ホテルの窓から】 比叡山が朝日を受けて美しく輝いていた。

№1 ホテルの窓から

朝食までには時間があるので、タクシー利用で御所を経て六角堂へ。
 
 【御所】

  建礼門前大通り  道幅約50m、南に約500m。 清々しい。
  
№2 御所(1)


  建礼門  この門の前から葵祭、時代祭りの行列が出発する。

№3 御所(2)


  築地塀  5条の筋は最高位とか。東西約250m、南北約450m。

№4 御所(3)


 【頂法寺六角堂】  

  山門  山門先の柳は、嵯峨天皇の伝説に因む縁結びの柳とか。

№5 六角堂(1)


  本堂  多くの災害に遭い、現在の本堂は明治10年(1877)に再建。

№6 六角堂(2)


  御幸桜  花笠も六角形。早咲きで、花山院の御幸に因むそうだ。

№7 六角堂(3)


  一言願い地蔵  願いごとを一つだけ叶えてくれるお地蔵さん。

№8 六角堂(4)


  親鸞堂  「夢窓之像」と「草鞋の御影」の前には、私の影?も!

№9 六角堂(5)


  へそ石  石灯籠や水位計の跡とする説が有力らしい。

№10 六角堂(6)


六角堂の創建は聖徳太子によるとか。用明天皇2年(587)に、念持仏と
していた如意輪観音像をご本尊として御堂に安置したと伝えられている。

ご本尊は背丈が一寸八分(約5.5cm)の秘仏で、通常は拝観できないが、
平成21年に、西国巡礼中興の祖とされる花山法皇の一千年遠忌を記念し
て、明治10年の六角堂再建以来136年振りにご開扉された。

今年は「西国三十三所草創1300年」に当たる記念すべき年ということで、
先日、ご開扉された。

 御本尊 御前立「如意輪観世音菩薩」

御本尊 御前立


朝食前の1時間ほどの散歩でしかなかったが、御所と六角堂に、京都の
歴史のエキスのようなものを、ホンの少しばかり垣間見た思いがした。

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  1. 2016/11/29(火) 19:56:37|
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言の葉もなし

H28.8.16(月) その6  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12

観音寺の十一面観音さんにまたお会いしたいものだと思いながら、
次の目的地、東山の高台寺へと向かった。バスを降りて近くのお店
に入っての昼食。生ビールが好きなメンバーが、どうしてかまた同
じく集まった。赤ら顔で山門へとつづく坂道をのぼった。きつい!

 【庫 裡】 拝観入口へ

№1 庫裡


 【遺芳庵】 明治41年(1908)に紹益の旧邸跡から移築したとか

№2 遺芳庵


 【高台寺庭園】(史跡名勝 昭和2年(1927)指定)

  偃月池(えんげつち) 偃月は半月よりやや細い月のこと

№3 偃月池(えんげつち)


  開山堂 左は観月台右は霊屋(おたまや)(何れも重文)

№4 開山堂


  臥龍池(がりょうち) 臥龍廊の下(「境内案内」参照)

№5 臥龍池


  臥龍廊 開山堂と霊屋を結んでいる

№8 臥龍廊


№9 臥龍廊


 【方丈前庭】 「波心庭」とも

№6 方丈前庭


№7 波心庭とも

 【勅使門】 大正元年(1912)に方丈とともに再建

№13 勅使門


 【傘亭(からかさてい)(安閑窟)(重文) 傘と言えば次は雨

№10 傘亭


 【時雨亭】(重文) 高台院は大坂城炎上を2階から遠望した?

№11 時雨亭


 【ヤブミョウガ《藪茗荷》】 竹林の手前、思わずハッとした

№12 ヤブミョウガ


 【石塀小路】 趣きのある細い路地

  厄除けの(ちまき)百鬼夜行のお化け提灯熟成の色の杉玉

№14 粽・提灯・杉玉


  忍び返し 槍の穂先? 下、横、上へと鋭く伸びている

№15 忍び返し


 【大文字鑑賞の夕べ】

  特別ディナー  芸妓さんに囲まれて満面笑みの

№16 大文字鑑賞の夕べ


  京都五山送り火 大雨のため部屋に戻りテレビで鑑賞

№17 京都五山送り火

  雨にかすむ「大」 京都・五山送り火 2016.8.16
     - 京都五山送り火:京都新聞」 -

5年前、陸前高田の松を護摩木として使うという提案があったが、
原発事故による放射能汚染を懸念する声で中止となった。当時の
ことをあれこれと思い浮かべながら、原発問題は、まだ収束して
いない、厳然と続いていると、燃え盛る火をみながら考えた。

そのうちに、矢張り疲れが出たのか、いつの間にか眠りに入った。
送り火の今日、京・・・「なべて世はこともなし」ということか。

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  1. 2016/10/27(木) 22:55:15|
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奈良の火と灯

H28.8.15(日) その3  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12

円成寺を後にして、ホテル日航奈良へ向かった。ホテルに着くや
荷物を置いて、すぐに夕食会場の菊水楼へ。

24名の参加者中8名で一つのテーブルを囲んだ。これがまたどう
いうわけか、みんなアルコール好き。ビールを飲んで最初から盛
り上がった。

8月の奈良の夜は、なら燈火会春日大社中元万燈籠東大寺
万灯供養会奈良大文字送り火など、火と灯による幻想的な輝
きに揺らめく。

ほろ酔い気分の千鳥足で、ライトアップされた奈良公園へと繰り
出した。歩いてすぐに、「中元万灯籠」と書かれた灯篭が迎えて
くれた。

 中元万灯籠

№1 中元万灯籠


№2 中元万灯籠


このまま真っすぐに進むと、春日大社境内の石燈籠が約2000基、
釣燈籠が約1000基、合計3000基におよぶすべての燈籠に火が灯
されているのを見ることができる。

今回のツアーには中元万灯籠は組み込まれていなかったので、途
中で右に折れて飛火野に向かい、高円山の大文字送り火が 8時に
点火されるのを待った。 点火された途端、「オー!」「ワー!」
と大きな歓声が沸き起こった。 シートから立ち上がるまでの間、
何故か鹿の糞の匂いが消えていた!?

 大文字送り火

№3 奈良大文字送り火


8時半に夕食会場に戻り、用意されたバスに乗って東大寺大仏殿へ。
大仏様のお顔は大仏殿の中に入らないと拝むことができないが、こ
の夜だけは大仏殿の「観相窓(かんそうまど)」が開かれて、中門や
参道からも拝むことができる。

大仏殿のまわりには2500基ほどの灯籠が並べられる。灯籠 1基に
四つの明かりが入れられるので、灯明の数は約1万になるそうだ。
灯かりに浮かび上がった大仏様のお顔を拝し、思わず「お~っ!」
と感動の声を発した。

手持ちのカメラではよく写せなかったが、明かりに照らされたお顔
は、かえって鮮明に、私の目に焼き付けられた。

 万燈供養会

№4 万灯供養会


№5 盧舎那仏坐像


№6 大仏殿


奈良公園一帯に展開する、火の激しさと灯のやわらかさが創り出す
幽玄で不思議な世界。訪ねる人のこころ騒がさずにはおかない何か
が、ここにある。

今日はお盆の中日、そして終戦記念日。夜の10時過ぎ、酒と火と灯
で顔と胸を火照らせながら、ホテルに戻った。

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  1. 2016/09/17(土) 17:50:09|
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奈良の円成寺

H28.8.15(日) その1 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12

6月の末、かみさんが「こんなツアーがある」と言って、大人の休
日倶楽部の旅行案内「奈良と京都 2都の大文字 東大寺「大仏拝顔」
・・・」
の切り抜きを寄越した。

タイトルだけではあまり興味が湧かなかったが、かみさんが「観音
寺の十一面観音にも会えるよ」と言ったので、内容をよく見たら、
何と観音寺の十一面観音のみならず、円成寺の大日如来、千本釈迦
堂の本尊釈迦如来までも含まれていた。

是非参加したい!と思ったが、問題は体調の具合や期間がお盆にか
かること。このため、お盆の前にお墓参りに行き、毎日1万歩以上
歩いて体調を整えることとして行くことに決め、7月の初めに予約
した。

催行の確定は7月22日。2泊3日の旅行で、出発は8月15日だった。
福島駅 7:39発のやまびこ120号に乗車。東京駅 9:33発のひか
り507号に乗り換え、京都駅に着いたのが12時11分。バスで柳生
の円成寺に直行した。


【円成寺(えんじょうじ) 奈良市忍辱山町(にんにくせんちょう)

 境内の木々の葉が早くも色づき、みんなで感嘆の声をあげた。 

№1 早くも色づいて


 庭園(名勝) 平安時代後期の作庭とか

№2 楼門(重文)


  楼門(重要文化財) 応仁2年(1468)栄弘阿闍梨の建立

№3 楼門(重文)

№5 楼門(重文)№6 楼門(重文)№7 楼門(重文)


 ミソハギ《禊萩》

№4 ミソハギ


 本堂(阿弥陀堂)(重要文化財) 阿弥陀如来坐像を安置

№8 本堂(阿弥陀堂)(重文)


 阿弥陀如来坐像(重文 平安時代後期) - 円成寺HPより -

   №9 阿弥陀如来坐像(重文)


 鎮守社 春日堂・白山堂(国宝) 全国で最も古い春日造の社殿とか

№10 鎮守社 春日堂・白山堂(国宝)


 護摩堂 中には不動明王が

№11 護摩堂


 多宝塔 大日如来坐像を安置

№12 多宝塔


 大日如来坐像(運慶作 国宝 平安時代末期) - 円成寺HPより -

   №13 大日如来坐像(国宝)


 キキョウ《桔梗》

№14 キキョウ


 十三重石塔(重要美術品) 平安後期の造立とか

№15 十三重石塔(重要美術品)


 楼門の扁額 円成寺の山号「忍辱山(にんにくせん)」

   №15 楼門の扁額


「忍辱」とは、菩薩の修行すべき六つの徳目を表す菩薩行六波羅蜜
(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若)の一つで、いかなる身心
の苦悩をも耐え忍ぶことを意味するとか。

因みに、「ニンニク」の語源は、この「忍辱」に由来するそうだ。

運慶作の大日如来坐像は、本当に素晴らしかった。その重厚な存在
感にただただ圧倒された。正面からは覗きメガネ?を使ってガラス
越しに拝観したが、お盆の中日ということだろうか左右と後ろの戸
が開けられていて、横顔と後姿をじかに手に取るような近さで拝観
することができた! 何と幸運なことか!

バスに戻る時間まで、その場に釘付けになっていた。

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  1. 2016/08/30(火) 20:52:43|
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黒岩虚空蔵堂

H28.4.9(土) その8  1 2 3 4 5 6 7 8

虚空蔵さんというと、どうしても柳津町にある福満虚空蔵さんを
思い出す。只見川から眺める、岩盤の上に立つ虚空蔵堂の壮麗な
姿は、例えようもない美しさだ。

最初の赴任地が会津坂下町だったことから、隣町の柳津には、虚
空蔵さんをはじめとして、温泉、粟饅頭、ウグイなど、懐かしい
思い出がたくさん詰まっている。

そんな昔のことを振り返りながら、散り椿の花びらを追っかけた。
花びらの先、断崖の柵の奥に、阿武隈川が流れていた。

№1 散り椿の奥には


柵のところまで行き、大きく深呼吸した。阿武隈峡の眺めがとて
も心地よかった。柵に寄りかかっていて、ドナルド・キーンさん
の「福島で一番気に入ったのは、黒岩虚空蔵の景色」という言葉
をふと思い出した。

№2 阿武隈川


№3 虚空蔵堂


№4 丑・寅


№5 案内板


№6 扁額


№7 胎内くぐり


№8 虚空蔵記


№9 十六羅漢像(1)


№10 十六羅漢像(2)


№11 十六羅漢像(3)


案内板には、「満願寺に伝わるこの虚空蔵堂は、弘仁2年(811)
に造られたといわれている」とあるが、虚空蔵堂の創建に係る記
録については、寺伝等は別として、虚空蔵堂棟札に墨書されてい
る「寛永11年」(1634)とある記録が最も古いとされている。

その記録に残る「現在のお堂」について、「福島市文化財調査報
告書」(昭和42年 福島市教育委員会)は、「当時の虚空蔵堂は、
定勝寄進の厨子を保管するに足るだけの・・・小規模のものでは
なかったろうか。そして寛政11年満願寺本堂造営と前後して、虚
空蔵堂も新らたに造営され」たのではなかろうかと想定している。

「寛政」と言えば、白河生まれの私は、定信公が行った寛政の改
をすぐに連想してしまう。その寛政の4年(1792)に満願寺の
方丈が竣工し、11年(1799)に虚空蔵堂が改修されているが、
同報告書は、改修後のお堂こそ現在のお堂ではないかと想定して
いる。寛永11年と寛政11年では、165年の隔たりがある。果たし
てどちらなのだろうか。

何れにしろ、社寺仏閣の創建年代や史跡の場所を特定することは、
とても困難なことだとつくづく思った。

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  1. 2016/08/07(日) 10:46:51|
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如意輪観音堂

H28.4.9(土) その6  1 2 3 4 5 6 7 8


虚空蔵堂に続く道を進むと、右手に観音堂(如意輪堂)がある。

 観音堂(如意輪堂)

DSCN0432 観音堂

黒岩満願寺展図録には、次のように記されている(p.13)。

  堂は宝永7年(1710)の建立で宝形造りである。古い満願寺
 境内絵図には観音堂は南面して建られて描かれている。現在は東
 面になり如意輪堂とも呼ばれている。

     
  黒岩虚空蔵堂および満願寺境内絵図
   (小倉寺白山道 加藤夢之助蔵) - 黒岩満願寺展図録(p.7)
年不詳、黒岩虚空蔵堂および満願寺境内絵図
     

DSCN0433 観音堂

「福島市の文化財 福島市文化財調査報告書第5集」(昭和42年 福島
市教育委員会)は、次のように記述している(p.24)。
  
  この観音堂は米沢藩主上杉定勝の四女於(お)サン、即ち吉良
 上野介義央
の室となった梅嶺院殿が寄進した持仏の観音像安置の
 ために建立されたものである。
  本尊は像高17㎝ほどの木造如意輪観音で、六角の框座の上に
 座している。如何にも夫人の持仏らしく、框座の各面に梅の文様
 が施こされており、光背には小さな三十三観音が浮彫りされてい
 る。
  お像は黒塗り(漆)の厨子(高さ53㎝正面幅27㎝)に納めら
 れており、厨子の内壁には、鳳凰と飛雲が上部に、下部には蓮花
 が金泥で繊細に描かれている。


    DSCN0435 観音堂

如意輪堂にかけられた案内板には、次のようにあった。

 如意輪堂 
 本堂は江戸時代宝暦年間の建立にして二百余年を経る 当本尊は
 吉良上野介内室梅嶺院(俗名サン)の朝夕礼拝念持せし吉良家の
 家宝如意輪観世音菩薩で元禄時代の代表的彫刻による御尊像で
 ある。当寺は米澤上杉公と関係深く他に吉良上野介室の枕屏風・
 打掛等保存しあり。
                  当山住持


 木造如意輪観音像 - 同報告書 p.24 -

   如意輪観音


観音堂の前に案内板が立っている。いくつか気になる表記があった。

観音堂

① 「元禄年間(1688~1703)に建てられたといわれて」とあるが、
  黒岩虚空蔵展図録の「如意輪観音堂棟札」についての次の説明
  (p.13)のとおり、「宝永7年(1710)」と解すべきだろう。

    吉良上野介夫人念持仏安置の観音堂棟札で、両面に墨書
   銘がある。表は長文の銘文で、これによると、第5世月峯
   (後に霊嶽)によって、宝永7年10月(1710)に建立さ
   れた堂であることがわかる。


② 「大石内蔵助の敵となった、吉良上野介」とあるが、赤穂浪士の
  「敵」は、吉良上野介義央ではなく、浅野内匠頭長矩に即日切腹
  を命じた幕府でなければ筋が通らないと思うが、どうだろうか。
  菊池寛『吉良上野の立場』(昭和6年)は、次の言葉で終わって
  いる。

   ・ 何が卑怯か、わしには正しい言い分があるぞ!
   ・ 大石にも、不当に殺される者の怒りが分からんのか


③ 「吉良家にとついで梅嶺院と呼ばれ」とあるが、「おサン」は吉良
  家に嫁いだ後「富子」と改名しており、「梅嶺院」と号したのは上
  野介の死去(元禄15年(1702)12月)後、落飾してからである。

④ 「如意輪観音をここに寄進されたという」とあるが、その時期は、
  梅嶺院の生存中なのか没後なのか、いつのことだったのだろう。

梅嶺院の兄は、米沢藩第3代藩主の上杉綱勝。寛文4年(1664)に嗣子
の無いまま急死したので、本来ならば米沢藩は廃絶となるところ、上野
介の嫡男三之助(後の第4代藩主上杉綱憲)が末期養子として認められ
て存続できた。吉良家では、嫡男とした次男の三郎が夭折し、他に男子
がなかったことから、元禄2年(1690)に、綱憲の次男の春千代を養子
として迎えた。後の吉良左兵衛義周である。

その義周は、赤穂事件の翌年に、「その夜のはからひよからず」とされ、
改易のうえ信濃諏訪藩(高島藩)の第4代藩主諏訪安芸守忠虎にお預け
となり、高島城に幽閉された。

梅嶺院は、綱憲の死(宝永元年(1704))の2か月後に、上杉家下屋敷
で死去している。

梅嶺院のお墓は、母親の生善院(米沢藩第2代藩主上杉定勝の側室。宝永
3年歿)が中興開基したとされる、広尾2丁目にある東北寺にあり、生善
院のお墓と並んでいるとのこと。

米沢の法泉寺にも梅嶺院のお墓がある。この寺は、姉の亀姫(定勝の三
女。大聖寺藩の第2代藩主前田利明の正妻。寛文4年(1664)歿。)の
法名(法泉院殿。「当寺の中興」。)をとって、元禄3年(1690)に、
禅林から法泉と寺名が改められた。こちらは、姉妹のお墓が並んでいる
そうだ。

鈴木由紀子『義にあらず』は、梅嶺院と姉の松嶺院(定勝の長女・徳姫。
大聖寺藩の初代藩主前田利治の正妻。貞亨2年(1685)歿)が語り合う
場面を描いている(p.136)。

  「ここにくるとなにもかも忘れて心が落ち着きます」
   松嶺尼はだまって富子の話を聞いていた。
  「衆生済度を願って御仏に仕えているお姉さまが、時折うら
  やましく思えてなりませぬ。わたくしなど煩悩にふりまわさ
  れて日々すごしております」
   いっさいのしがらみからとき放たれて、姉のように仏道に
  帰依できたら、平安な心で生きられるような気がした。


梅嶺院は、波乱に満ちた人生の中で、如意輪観音像を前に、日々何を
念じ続けてきたのだろうか。その思念(おもい)を知ろうと、本を読
んだり、ネットで調べたりしてきたが、おぼろげながらも知るほどに、
どうしようもなく切ない思いに駆られてしまう。

義周は宝永3年(1706)、配流先で死去した。

平成20年(2008)に諏訪へ旅行した際に、最初に訪ねたのが法華寺で
あり、その裏山にある義周の墓だった。名門吉良家断絶の壮絶さに、
何とも遣り切れない思いに襲われたのを、今もはっきりと覚えている。

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  1. 2016/07/25(月) 05:35:43|
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黒巌山満願寺

H28.4.9(土) その5  1 2 3 4 5 6 7 8

旧参道の石段をの上りきった正面に、立派な山門が構えていた。

 山門の扁額

山門

「黒岩満願寺展」(福島県文化センター 昭和54年10月20日~12月5日 )
図録には、次のように記されている(p.11)。

 ・ 山門の扁額「黑巌山」は黄檗五世高泉の書
 ・ 満願寺の本堂は棟札によると寛政4年(1792)に建築
 ・ 山門は宝暦八年(1758)の建築で四脚単層の重厚な門

黄檗五世高泉は、元禄5年(1692)に黄檗宗萬福寺の第5代住持となった
高泉性敦(こうせんしょうとん)のこと。明からの帰化僧で、寛文元年(1661)
に来日し、元禄8年(1695)に没している。

高泉和尚は、寛文5年(1665)に二本松藩主丹羽光重が創建した法雲院
(珊瑚寺)の住持(開山)として招請された。

高校時代の同級生である藤田君は、和尚が二本松に居た期間は短かっ
たが、この間に満願寺との交わりが深まったのだろうとして、次のように
記している。

 同寺には、高泉の書になる寛文年間の鐘銘下書や、山門扁額の
 下書があるが、これらは二本松存居時代の高泉に請うて得たもの
 であろう。

  - 藤田定興『福島県の黄檗宗寺院』(文化福島 1981/1月号)

山門を入るとすぐに、案内板が立っている。

 「黒岩虚空蔵および満願寺」案内板

IMGP0328

黒岩満願寺展の図録の「黒岩満願寺の由緒と資料展の概要」
においては、次のように記している(p.1)。

  満願寺の歴史は、これまでのところ江戸時代の初期までは遡れ
 明らかである。慶長三年(1598)上杉景勝が越後春日山から会津
 若松に移って120万石を領し、信達両郡もその支配下におかれる
 が、この頃より、上杉氏と深いかかわりをもつようになり、満願寺
 隆盛の時代をむかえる。
  ・・・
  満願寺が臨済宗となるのも、上杉氏の強い要請によるものとおも
 われるが、つい最近まで満願寺は、山形県米沢市御守町(旧二の
 丸)にある臨済宗法泉寺の末寺であった。この法泉寺の前身は禅
 林寺と称し、上杉景勝の命によって、直江兼続が普請奉行となって、
 城の北部(二の丸)白子明神の西方に創建したといわれ、満願寺と
 もゆかりの深い九山和尚(寛永13年11月遷化)の開山である。
  ・・・
 元祿4年(1691)藩主上杉定勝の息女亀姫の法号法泉院に因んで
 法泉寺と改称されたが、同寺に伝わる元和4年(1618)事蹟帳によ
 ると、同年11月25日旧信夫臨済宗の全寺院が挙げて禅林寺に登
 山してその末寺となったとあり、満願寺もこのころすでに臨済宗で
 あったことが知られる。


藤田君は、九山宗用(きゅうざんそうそう)について次のように記している。

 九山は、この禅林寺住職の傍ら多くの門弟を擁し(その法系は
 信達地方の妙心寺派寺院に広がる)、一時京都妙心寺に再入し
 て第百十五世の職にもついた。そして晩年は、福島市土湯の興
 徳寺に隠居しこの地に歿したといい、(享保二年興徳寺鐘銘)墓
 碑とする無銘の無縫 塔がある。

  - 藤田定興『米沢法泉寺開山九山宗用について』
              (文化福島 1980/11月号)


案内板を後にして、旧大蔵寺門前の古碑の前に、しばらく立つ。

 旧大蔵寺門前の古碑

IMGP0331

 小倉寺大蔵寺は住古、阿武隈川の西にありと伝えられ、
 旧大蔵村方郎内(現、田部屋)の寺跡に残っていた但一基の古碑
 碑文「昨日雨今日伏拝□□□・・・・・・


古碑の先に、国が認定した重要美術品の「銅鐘」がある。

 国認定重要美術品「銅鐘」

IMGP0405

 銘文によると、寛文年間、第2世西堂の時鋳造され、その後延宝
 4年(1676)と元祿10年に修理されていることがわかる。

  (黒岩満願寺展図録 p.14)

IMGP0403

「福島市の文化財 福島市文化財調査報告書第5集」(昭和42年 福島市教育
委員会)には、次のように記されている(p.21)。

 寺伝によれば、当寺には古来いぼなしの鐘とよばれる鐘が
 あったが、これが大破した後をうけて、寛文年間(1661~
 73)にそれを模して鋳造したのがこの銅鐘であるという。


梵鐘の表面上方は、通常はイボ状の突起(乳(ち))が並び(多くは煩悩
の数と同数の108個とか)、「乳の間(ちのま)と呼ばれる。

満願寺の銅鐘には、この部分に飛雲と天女の姿が彫られていて、イボ
状の突起がない。

IMGP0403 天女



白河生まれの私にとって、満願寺といえば関山の満願寺が浮かんでくる。
丹羽公といえば白河小峰城とすぐに結びつく。関山の頂上にある銅鐘も、
黒岩の満願寺の銅鐘も、ともに昭和19年に、国の重要美術品としての認
定を受けた。

この寺は、懐かしい故郷の思い出を、何故か呼び覚ましてくれる。

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  1. 2016/06/29(水) 05:51:04|
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