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独りよがりのつぶやき

花の写真を中心とした 気ままなブログです

南都 大安寺

R1.12.31(火) 京都・奈良の仏像を訪ねて - H29.10.15~17 の記録

  来迎院/三千院/広隆寺/清凉寺/大覚寺/仁和寺/大安寺/興福寺/東寺/三十三間堂


最終日の三日目(10月17日)は、奈良の大安寺からスタート。

京都駅9時発の近鉄京都線特急に乗って、近鉄奈良駅に到着したのが9時35分。
駅前からタクシーを利用して、10分ほどで大安寺に着いた。

タクシーを降りて、小雨がぱらつくなか南門を潜った。その瞬間、眼前に現れ
た光景に思わず息をのんだ。そこは、名状しがたい清澄な気に充ち溢れ、しっ
とりとして落ち着いた雰囲気のなか、悠久の時間(とき)が流れていた。


大安寺の歴史は、聖徳太子の羆凝(くまごり)寺に始まるともいわれる。が、舒明
天皇
の発願により建立された「大寺(百濟大寺)」を淵源とする、というのが
ほぼ定説らしい(「吉備池廃寺発掘調査報告」 p.150)

日本書紀(舒明天皇11年 639)は、「秋七月、詔曰、今年造作大宮及大寺、則以
百濟川側爲宮處、」と記す。聖徳太子による法隆寺の創建(推古天皇15年 607)
から約30年後、聖武天皇による東大寺大仏造立の詔(天平15年 743)の約100年
前のことである。

百濟大寺はその後、「高市大寺」、「大官大寺」へと名と所を変えて移り、さ
らに平城京遷都(和銅3年 710)に伴い霊亀2年(716)に現在地に移り、天平17
(745)、「天下大平 万民安樂」を祈る大寺として「大安寺」と号されたと
いう(扶桑略記)。

大安寺は、「唐の西明寺を範とし、祇園精舎を現実世界に表現した寺」として、
「奈良朝の盛時には 887名もの学侶が止宿居住し、あたかも迎賓館兼仏教総合
大学の観」を呈していたとのこと(大安寺歴代住侶供養碑)

講堂の広さは金堂の約2倍、東西二基の七重塔の高さは約70mもあったという。
しかし、平安時代以降になると幾度となく災禍に見舞われて大伽藍は失われ、
江戸時代の初めには小庵と仏像九体を残すのみで、廃寺のようであったという。

明治30年(1897)に「古社寺保存法」が制定されたが、この法律は古社寺の建造
物などの保存を目的としたもので、史跡などが保存の対象となるのには、大正
8年(1919)「史蹟名勝天然紀念物保存法」の制定まで待たなければなかった。
文部科学省/学制百年史/第一編/第五章/第四節 文化財保護

大安寺の両塔は基壇がよく残り、その存在が早くから知られていたことから、
大正10年(1921)3月3日、史蹟「大安寺塔阯」として指定された(奈良県歴史文
化資源DB)
。因みに、山田寺阯川原寺阯大官大寺阯元藥師寺阯も同時に
史蹟として指定され、翌大正11年(1922)10月12日には平城宮阯も指定された。

発掘調査については、昭和29年(1954)の南大門・中門地区の調査が最初と
され、これまでの調査により、平城京時代には約8万坪(甲子園球場の20倍)
の広大な寺域に、南大門・中門・講堂・塔などが配されていたことなどが判明
した。

復興については、「明治十五年((1882)、奥山慶瑞・佐伯泓澄が私財を投じ
て小堂と庫裏一棟を建立し、大安寺再興の第一歩を記し、さらに石堂恵猛等に
よって現本堂が建立され」(大安寺HP)、昭和38年(1963)には収蔵庫(讃仰
殿)が、平成に入ってからは小子房・嘶堂・南門・護摩堂が整備された。

大安寺HPは、「かつての大安寺の伽藍、にぎわいに少しでも近づけるべく、
復興を進めていくと共に、南都の古寺らしい静かで落ちついた宗教空間を御提
供できるよう、努めてまいります。」と記している。

どのように整備が進められていくのだろうか、関心が深まるところだ。


 本 堂

本堂


本堂 (2)


 本尊十一面観音立像 - 大安寺HP

大安寺 本尊十一面観音立像十一面観音立像 (2)

 胸の飾りなどを見ると、1本の木からきれいに彫っていて、とても素晴らしい
 ものです。
 - 西山 厚(奈良国立博物館学芸部長)


 楊柳観音立像 - 大安寺HP

楊柳観音楊柳観音立像

 この仏像の憤怒の表情は、大義がいかなるものであれ、愚かしい戦争を怒る
 ものである。その悲劇を憤り、嘆くものである。
 - 河野良文(大安寺貫主)


奈良に魅せられてから、半世紀余りが過ぎた。どうしてこんなに魅せられるのか。
奈良の素晴らしさは、予備知識がなくても自然と伝わってくる。これに、入江泰吉
や土門拳の写真、「古寺巡礼」(和辻哲郎)や「大和古寺風物詩」(亀井勝一郎)
「大和路・信濃路」(堀辰雄)が加わり、一層魅了されるようになったのだと思う。
また、万葉集や會津八一の歌の数々に惹かれたことも、要因の一つかも知れない。

しかし、この間、森鴎外の「奈良五十首」については、どうした訳かその存在を知
らなかった。初めて知ったのは、つい最近のことだ。
   
   とこしへに奈良は汚さんものぞ無き雨さへ沙に沁みて消ゆれば

《正倉院》の中の一首だが、この歌からは、奈良を思う心、奈良を汚すものへの憤
りと奈良を汚してはならないという悲願が伝わってくる。

年明けに開催される東京国立博物館「出雲と大和」(会期:1月15日~3月8日)に、
大安寺の多聞天立像楊柳観音菩薩立像の二体が出陳される。

特別展の開催趣旨は、令和2年(2020)は我が国最古の正史『日本書紀』が編纂さ
れた養老4年(720)から1300年という記念すべき年に当たることから、出雲と大
和の名品を一堂に集め、古代日本の成立やその特質に迫ろうとするもの。

1300年という歴史の流れのなかで数奇な運命を辿った大安寺だが、今回出陳され
る両像の忿怒の形相に接し、人は何を思うのだろうか。

今日は大晦日。 この一年間を振り返り、大安寺の仏像を初めて拝したときのこと
を思い出しながら、新しい年が少しでもよくなるようにと願った。



相念はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後へに額づくが如 笠郎女(万葉集 巻4 608)
      仙覚『萬葉集註釋巻第四』 不相念人乎思者大寺之餓鬼之後爾額衝如
   笠郎女の歌 - 尾山篤二郎『万葉集物語』第3篇 大件家持の戀歌 6(1925) p.206
    歌意は、餓鬼のしりへに禮拜するやうで、相手が思はぬのにこちらだけで思ふのは、驗
    なきものであるの由である。仙覺の註に、昔は、大寺の堂舎に餓鬼を作り後戸の方に置
    いてあった。それを田舎者人などが、堂舎巡禮をしてこの餓鬼をも佛と思ひ違ひ巡拜す
    るのを儚きことゝ思ひ笑ったのである。依つて此歌にも其儚き業であることを詠つたの
    である。といふ意味の事が記されている。

   鴻巣盛広『万葉集全釈』(1935)
    後爾は強い言葉である。餓鬼は前から拜んでも無効であるから、後から拜んでは尚更
    である。

    〔評〕比喩が痛快・・・ともかくも出色の作である。
   小野寛『笠女郎歌群の構造』 - 学習院女子短期大学紀要(7) 1970
    17/20 私はこの歌を絶縁状ではないかと思うのである。この歌に作者のその覚悟を私
     は読む。・・・感情は激しているだろうが、それに流されてできた歌とは思えないので
     ある。こんな思い切った表現をすることによって、いつまでもどこまでも思い続け、片
     恋の苦しみを続けて行きそうな自分に、思い切るきっかけを与えようとしたのだと思う。

   笠郎女:家持との恋の歌 - 万葉集を読むー壺齋散人の万葉集評釈ー
    私の方ではこんなにも恋焦がれているのに、あの人は涼しい顔をして私の心をもてあそ
    んでいる。自分を大切にしてくれない男を思うのは、餓鬼の背中に向かって額づくよう
    なものだ。こう笠郎女は嘆き、報われない恋をいらだたしく思ったのかもしれない。

大安寺今めく堂を見に來(こ)しは餓鬼のしりへにぬかづく戀か 森鴎外 大正8年
 - 鴎外全集 第19巻(岩波書店 昭和48年) 短歌 奈良五十首(大11・1『明星』第1巻第3號)
    p.526
大安寺
   ・ 奈良小記(南都小記) - 東大附属図書館 コレクション > 鴎外文庫書入本画像DB
    〔17〕 大安廃寺大安寺村 笠ノ女郎ノ歌 ガキノシリヘ云々
    〔31〕 大安廢寺 七大寺ノ一ナリ 高市郡ノ大官大寺ヲ迁セルナリ 和銅中
   ・ 委蛇錄(大正八年十一月十一日) - 鴎外全集 第35巻(岩波書店 昭和50年) p.786
     遊大安寺村大安寺址。從京終上車而還。寺址今有大師堂。大師謂空海。
   辻憲男『森鴎外「寧都訪古録」札記:柳沢淇園と北浦定政、穂井田忠友』
       - 神戸親和女子大学学術リポジトリ 2012

     興味深いのは上古の史跡よりも、十四日と二十二日のごとき、近世文化人の墓碑掃
     苔の記事が詳しいことである。翌八年は忙中、般若寺、大安寺、長谷寺を訪ねた。博
     物館公務のほかは、ニ、三出遊したにとどまる。
p.39 3/14
        柳沢淇園北浦定政穂井田忠友
    平山城児『鴎外「奈良五十首」を読む』(中公文庫 2015) p.144~
   ・ 「大安寺という寺は、かつては東大寺にも匹敵しうるほどの大寺だったと聞き、私は
     あこがれて来た。ところが、現実に来てみると、みすぼらしい今年建ったばかりのお
     堂があるだけである。そんな寺にあこがれて来た自分の気持は、たとえてみれば、
     昔笠女郎が家持に贈った歌のように、はかない片思いというべきであろう。」
p.146
   ・ 「奈良五十首」を作らしめた鷗外の「志」は、一言でいえば、「憤り」であった。こ
     こで私は、司馬遷の「報任安書」を思い出す。「詩三百篇、大抵賢聖発憤之所為作
     也。」という言葉である。鴎外は、大正初年の政治や社会のあり方に「憤リヲ発シテ」、
     「奈良五十首」をよんだのである。そして、心に鬱結するところがあってもそれを通ず
     ることができずに、そのため、「往事」をのべて「来者」に思わしめるために、正倉院
     や光明皇后や穂井田忠や北浦定政をよんだのである。
  p.235~
   資料 352 森鴎外の短歌「奈良五十首」(大正11年1月1日『明星』) - 小さな資料室
會津八一『自註鹿鳴集』(岩波文庫 1998)
   『自註鹿鳴集』 南京新唱 明治41年8月より大正13年に至る p.56~
          大安寺をいでて薬師寺をのぞむ
   しぐれ ふる のずゑ の むら の このま より み いでて うれし やくしじ の たふ
   ・ 大安寺 幾度か火災にあひ、寺運衰傾し、今は僅に一宇の仮堂を存するのみ。慶長年中
     (1596-1614)の記録には、諸像を二間四面の草室に積み重ね、本尊も數片に碎け「佛
     面ハ庭ノ芝草ノ敷物トナセリ」などいへり。かかる窮状を經來りしためか、今この寺の
     佛像には、全身に無慚なる損傷の痕甚だしきもの多し。

   ・ のずゑのむら 今はあさましき原野となりはてたる平城の都址を隔てて、西の京の方を
     望むに、時雨の降りしきる里洛の中より、まづ藥師寺の塔の目に入り來れるを詠めるな
     り。

         秋草道人『南京新唱』(春陽堂 大正13年(1924)) p.63
                藥 師 寺
           しぐれふる野すゑのむらのこのまよりみいでゝうれし藥師寺の塔
    吉野秀雄『鹿鳴集歌解』(中公文庫 昭和56年) p.67 ・ 鹿鳴集歌解(創元社 1947)
   ・ 往時は伽藍広壮、東大・西大に対して南大寺の称があったが、後頽廃に頽廃を重ねて一時
     はわづかに一草堂のみ影をとどめるに至り、今はやうやく新築の金堂一宇を備へている。
     この大安寺を出で、平城京址を横ぎっていづくへか行く途中、西方半里ばかりの彼方に薬
     師寺を望み見るという題意。

   ・ この「しぐれ」は大安寺を訪うて、けふの仏寺めぐりも終らうとした夕つ方、慮らずも
     降った時雨かもしれない。雨具なども携へず、眼鏡なども曇り、何かたよりない心地の折
     しも、遥かに西之京薬師寺の東塔をみとめたのが、「みいでてうれし」の感懐であらう。

   『自註鹿鳴集』 南京余唱 p.163
            奈良博物館卽興
    のち の よ の ひと の そへたる ころもで を かかげて たたす ぢこくてんわう
   ・ 持国天王。四天王の一。大安寺出陳。元来重厚の作風なるを、破損を修理せる工人の技術
     精妙ならざりしために、衣袂はますます重苦しげに見ゆるに至りしなり。

   ・ 會津八一『渾斎随筆』(中公文庫 昭和53年) p.170
    特色のある名作であるが、補修の部分が拙づいので、見るごとに氣になる。
    吉野秀雄『鹿鳴集歌解』(中公文庫 昭和56年) p.121
    天平後期の木彫彩色、高さ五尺ばかり、体軀肥脹した像。後世の改修が甚だしい。「かか
     げて」は身にまとひ、他に見せて。

和辻哲郎『古寺巡禮』 (岩波書店 1928.2)   ・ 青空文庫(「古寺巡礼」 九)
    十三 天平彫刻の作家 p.83~
  ・ p.85 あるいは大安寺の木彫諸作を、唐招提寺の木彫に比べて見る。あるいはもっと詳しく、
    たとえば大安寺の楊柳観音・四天王の類を同じ寺の十一面観音などと比べて見る。そこにあ
    るのは単に技巧上の区別ではない。明らかに作家の個性の相違である。

  ・ p.87 大安寺の諸作は右の諸作ほど特異な才能を印象しはしない。もっとふっくりした所も
    あり、また正面から大問題にぶつかって行く大きい態度も認められる。しかし写実がやや表
    面に流れているという非難は避けることができない。あの楊柳観音の横の姿などは、いかに
    もよく安定した美しい調和、どっしりとした力強さを印象するが、しかし何となく余韻に乏
    しい。その円い腕なども、微妙な感覚を欠いている。四天王にしても、これという欠点はな
    く、面相などは非常にいいが、しかし全体の感じにどこか物足りない、平凡なところがある。

  ・ p.88 大安寺の女らしい十一面観音は、恐らくこれらの作家に学んで、さらにその道を押し
    進めた作家の作であろう。頭部は後代の拙い補いだから論外として、その肢体はかなり写実
    的な女の体にできている。胸部と腰部とにおいてことに著しい。そこには肉体に対する注意
    がようやく独立して現われて来たことを思わせるものがある。観音らしい威厳はないが、
    ヴィナス風の美しさは認められる。この像から頭部と手とをきり離して、ただ一つの女体の
    像として見るならば、大安寺の他の諸像よりははるかに強い魅力を感ぜしめるであろう。

   森郁夫『わが国古代における造営技術僧』 - 京博 学叢 第11号 平成元年3月31日
   835夜 和辻哲郎『古寺巡礼』(岩波文庫 1979) 松岡正剛の千夜千冊 2003年08月25日
亀井勝一郎『大和古寺風物誌』 亀井勝一郎『帰依と復活』 - 青空文庫  いそラボ
  ・ すべて古典に対する真の愛情は廃墟への感傷に始まる。世の中から忘れ去られて、なかば
    埋れたまま荒廃しているところへ赴き、人しれずその生命を求める ── そういう労苦と寂寥
    に耐えてはじめて古典の復活はあるであろう。
 《法輪寺 荒廃》
  ・ 「ああ塔がみえる、塔がみえる」── そう思ったとき、その場で車をすてて、塔をめざして
    まっすぐに歩いて行く。これが古寺巡礼の風情というものではなかろうかと思う。おそらく
    古人も、遥かに塔を望みながら、誘わるるごとくひきよせられて行ったに相違ない。塔には
    ふしぎな吸引力がある。憧憬と歓喜を与えつつ否応なしに我々をひきよせるのだ。その下に
    伽藍があり、諸々のみ仏が在す。朝夕多くの善男善女が祈願を捧げている。そういう息吹が
    炎のようにもつれあって、静かに虚空へ立ちのぼる相をそのままに結晶せしめたのが塔なの
    であろうか。
 《薬師寺 塔について》 
  ・ 私は日本書紀や続日本紀を読みつつ、後代より慕わるる美しい時代が、その底につねに暗澹
    とした苦悩を、悪徳の深淵を湛(たた)えているのをみて驚く。平和とはそもそも何だろう。
    平和とは内攻した血の創造の日々である。
 《東大寺 天平の花華》
  ・ これからも何が崩壊するか、焼失するか、予測し難い。遺憾だが、これは古寺古仏の運命と
    いうものかもしれない。今のうちに出来るだけ見ておくことだ。ほんとうの美しさ深さは、
    とても筆や写真では伝え難いのである。
 《あとがき》
大橋一章『平城遷都と国家官寺の移転』 - 早稲田大学リポジトリ 2009
平城京の塔の景観 - なぶんけんブログ 2013年11月1日(遺構研究室長 箱崎和久)
青年・空海と奈良 - 南都七大寺 大安寺 貫主/河野 良文
    - 巡る奈良 [奈良県] > 特別講話10|祈りの回廊 2015年秋冬版
    010 仏法の衝撃と中国的価値世界への決別|空海誕生 - エンサイクロメディア空海 -
    041 般若三蔵の華厳とサンスクリット指南|入唐留学 -エンサイクロメディア空海-
西山厚『仏教発見!』 (講談社現代新書 2004年11月19日) p.3 はじめに
 平成十五年・・・ジャパン・ソサエティー・ギャラリーで開かれた特別展「日本と韓国の古代仏
 教美術」の会場に・・・楊柳観音像と多聞天像に添えた、大安寺住職の河野良文さんのメッセー
 ジが、日本語と英語で記されていた。

     この仏像の憤怒の表情は、大義がいかなるものであれ、愚かしい戦争を怒るものである。
     その悲劇を憤り、嘆くものである。仏の怒りと悲しみをあえてお伝えするべく、開陳を
     認めた。

   ・・・
 楊柳観音像は奈良時代(八世紀)に制作された。楊柳観音の名はのちの時代に付けられたもので、
 本当の名はわからない。怒りのなかにかげりがあるのが特徴で、奈良時代の密教像とし注目され
 ている。
      
   ・ 南都 大安寺 - 平成22年1月  ・ 南都大安寺 後日譚 - 2011年 12月
  奈良学ナイトレッスン 第7期 奈良の古仏を愛でるⅡ 平成25年2月19日
      ~ 第ニ夜 十一面観音を旅する ~ 西山厚(奈良国立博物館学芸部長)

  全身は奈良時代なのですが、お顔は非常に新しいお像です。それから右手や左手の先も新しい。 
  大安寺の仏像は、奈良時代ものが9体残っていますが、全身ちゃんと残っているお像は1体もあ
  りません。両手が残っているお像さえ1体もないです。大安寺の1300年というのは、なかなか
  大変な1300年でした。しかし、胸の飾りなどを見ると、1本の木からきれいに 彫っていて、と
  ても素晴らしいものです。私は、表面の風化したような仏様がとても好きなのです。綺麗なお
  像よりも、1000年、1300年の時を経て、風化しつつあるその姿がとても好きです。

   まぼろしの大寺 - NHK 奈良放送局|西山教授の仏教よもやま話 2018年5月8日
森下惠介『大安寺の歴史を探る』 大安寺歴史講座 2 (東方出版 2016)
   今後も大安寺の発掘調査は続き、調査が進めば、内容を書き改めなければならないことも
   あるかと思われますが、現在の段階でわかったことをまとめてみました。
p.182
   大安寺歴史講座シリーズの刊行にあたって - 大安寺貫主 河野良文
    大安寺の旧伽藍を復元していくことは寺院としての第一義ではありません。むしろ今日的境
   内整備と相俟って、かつての大安寺の存在が掘り起こされ、人々の間に認識されて、その精神
   的な復興につながることになれば望外の喜びです。
p.189
平城京の寺院と僧侶 - 王寺町観光協会 歴史リレー講座 第22回 河野良文氏 H28.7.17
【見仏入門】No.39 奈良・大安寺の仏像/十一面観音立像、馬頭観音立像、楊柳観音
  立像、御朱印など
 - 仏像リンク
地下に埋まるは巨大なロマン。 「大安寺」は天皇がはじめて建てた、日本でいちばん
  大きな寺だった。
 - ON THE TRIP
楊柳観音ならびに多聞天出陳のお知らせ - 大安寺 
   東京国立博物館 - 日本書紀成立1300年 特別展「出雲と大和」/平成館 特別展示室
     2020年1月15日(水) ~ 2020年3月8日(日)

   ・ 作品リスト(1MB) 第4章:仏と政(まつりごと)
      103 ◎ 多聞天立像    1軀 奈良時代 8世紀 奈良・大安寺
      104 ◎ 楊柳観音菩薩立像 1軀 奈良時代 8世紀 奈良・大安寺
   ・ 展覧会公式サイト

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